疾患リスク
いまのがん検診は、年齢と性別で対象を決める「全員一律」の仕組みです。そのため、投じた資源に対してどれだけの利益が返ってくるかという費用対効果の面で、構造的な課題を抱えています。これを一人ひとりのリスクに応じて設計し直そうという研究が世界中で進んでいます。どこまで分かっていて、健保としていま何ができるのか。境界線をはっきりさせて整理します。
ゲノ先生とミライさんの対話

先生役
ゲノ先生
遺伝や検査の仕組みを、根拠ベースでやさしく解説する案内役。

質問役
ミライさん
読者の疑問や不安を代弁しながら、理解を深めていく相談役。
ミライさん
ゲノ先生、「個別化がん検診」という言葉を聞いたんですが、これはどういうものですか?
ゲノ先生
今いちばん動いている領域のひとつだね。まず前提を確認しよう。いまのがん検診は、年齢と性別で対象を決めている。たとえば「40歳以上の女性に2年に1回」というように、同じ年齢の人は全員同じ扱いになる。
ミライさん
はい、うちの健保もその区切りで案内しています。
ゲノ先生
この仕組みは公平だし、運用もしやすい。ただ、同じ40歳でも、実際のリスクは人によってかなり違うよね。家族歴のある人もいれば、遺伝的な素因が高い人もいる。逆に、かなり低い人もいる。それを全員同じ間隔、同じ方法で見ているわけだ。
ミライさん
たしかに、言われてみればそうですね。
ゲノ先生
そこで出てくるのが、リスク層別化検診という考え方なんだ。年齢に加えて、家族歴、生活習慣、そしてPRSのような遺伝的リスクも組み合わせて、検診を始める年齢や、受ける間隔、使う検査方法を人によって変える。これが個別化がん検診だよ。
ミライさん
リスクが高い人は早めに、低い人はゆるやかに、ということですか。
ゲノ先生
イメージとしてはそうだね。ここがポイント!これは「高リスクの人を手厚くする」だけの話ではないんだ。低リスクの人にとっては、不要な検査を減らせる可能性がある、という意味もある。がん検診には利益だけでなく不利益もあるからね。
ミライさん
不利益、というと。
ゲノ先生
偽陽性で不安になったり、追加の検査を受けることになったり。生涯症状を出さなかったであろうがんを見つけてしまう過剰診断もある。だから検診は「多く受けるほど良い」ものではなくて、利益と不利益のバランスで設計されているんだ。個別化は、そのバランスを一人ひとりに合わせようという発想だよ。
ミライさん
なるほど。ただ、いまの一律の仕組みで何がいちばん問題になっているんでしょう。
ゲノ先生
ここが核心なんだけど、がん検診のいちばん大きな課題は、集団全体で見たときの費用対効果なんだ。一人ひとりの話ではなく、投じた資源に対してどれだけの利益が返ってきているか、という総体の話だよ。
ミライさん
総体、ですか。
ゲノ先生
考えてみてほしい。全員一律で検診をすると、大多数を占める低リスクの方にも同じ回数、同じ方法で検査をすることになる。そこから出てくる偽陽性への対応、追加の検査、過剰診断とその後の治療。これらは全部コストであり、同時に受ける方にとっての不利益でもある。一方で、本当に手厚く見るべき高リスクの方には、必ずしも十分な資源が向いていない。
ミライさん
資源の配り方が、リスクの分布と合っていないということですね。
ゲノ先生
まさにそこだよ。ここがポイント!だから個別化がん検診の狙いは、検診を増やすことでも減らすことでもなくて、同じ資源をリスクに沿って配り直すことなんだ。総額を増やさずに、見つけるべきがんをより多く見つけ、不要な検査と過剰診断を減らす。うまくいけば、費用対効果そのものを改善できる可能性がある。
ミライさん
それは、実際に確かめられているんですか。
ゲノ先生
その方向の報告は出てきているよ。乳がんでは、PRSによるリスク層別化検診を従来の年齢ベースの検診と比べて、費用対効果の面で優れるという分析が報告されている。前立腺がんの研究も、この文脈で読むと意味がよく分かる。上位10%に絞ってスクリーニングしたところ、見つかったがんの多くが、従来の診療経路では拾えていなかったと推定されたんだ。検査する人数を大きく絞りながら、これまで届いていなかったところに届き得る、ということだからね。
ミライさん
検査の総量を減らしながら、検出は保てるかもしれないと。
ゲノ先生
そこが期待されている点だね。ただし、こうした分析は前提の置き方で結果が動くし、対象とする集団や医療制度によっても変わる。「費用対効果が改善する」と断定するのではなく、「改善し得ることを示す研究が出てきている段階」と理解しておくのが正確だよ。
ミライさん
研究はどのくらい進んでいるんですか。
ゲノ先生
かなり大きな試験が動いているよ。乳がんでは、欧州のMyPeBSや米国のWISDOMといった大規模な研究が、標準的な検診とリスクに応じた検診を比較している。これらはまだ進行中で、結論は出ていない。
ミライさん
結果が出ている研究もあるんですか。
ゲノ先生
前立腺がんでは、2025年にNew England Journal of Medicineに報告があった。PRS上位10%の高リスク群を対象にスクリーニングを行ったところ、見つかった中〜高リスクのがんのうち71.8%が、現行の診療経路では検出されなかったと推定される、という結果だね。「がんの71.8%を見つけられた」という感度の数字ではないので、そこは読み違えないでほしい。それでも、従来の方法では見逃されうるがんに届いた、という点で注目された研究だよ。それから乳がんでは、PRSによる層別化検診の費用対効果を、従来の年齢ベースの検診と比べて検討した研究も出ている。
ミライさん
思ったより進んでいるんですね。ということは、うちの健保でも導入できるんでしょうか。
ゲノ先生
ここが今日いちばん大事なところだよ。研究として有望であることと、いま健保が実施してよいことは、はっきり分けて考えないといけない。
ミライさん
……というと。
ゲノ先生
日本の対策型がん検診は、有効性の評価にもとづいて対象年齢と方法が定められている。この推奨を、健保や事業者の判断で動かすべきではないんだ。「PRSが低いから検診は5年に1回でいいですよ」とか「高いから30代から始めましょう」といった案内を、健保が独自に出すのは行き過ぎになる。
ミライさん
では、いまできることは何もないんですか。
ゲノ先生
いや、けっこうあるよ。公的な検診の枠組みは動かさないまま、その周りでできることが3つある。
ミライさん
ぜひ教えてください。
ゲノ先生
1つめは、受診勧奨の個別化。対象年齢の方に案内を出すのは全員同じ。そのうえで、遺伝的リスクが高い方には、もう少し丁寧な説明を添えたり、受診を強めにお勧めしたりする。ここは十分にできることだよ。動かしてはいけないのは「誰が対象か」「どの検査を」「どの間隔で」という推奨そのものであって、対象の方に受診を促すこと自体は、むしろ検診の目的に沿っているからね。
ミライさん
たしかに、それなら問題なさそうです。
ゲノ先生
2つめは、任意で上乗せしている補助の配分だね。健保が独自に補助している人間ドックのオプション検査などについては、配分を検討する余地がある。公的な検診は全員対象のまま、上乗せ分の配り方を変える、という順番だよ。
ミライさん
土台は動かさず、上乗せ分だけ、ですね。3つめは?
ゲノ先生
精密検査の受診率の底上げだよ。実は、検診で要精検となった方のうち、実際に精密検査を受ける方の割合は決して高くない。これは多くの健保さんが抱えている課題だと思う。ここに遺伝的リスクの情報が加わることで、受診の後押しになる可能性がある。
ミライさん
検診そのものより、その後ろのほうに効くかもしれないと。
ゲノ先生
そこは見落とされがちだけど、事業としてはかなり大きい論点だと思うよ。ただし、いずれも「効果があるはず」で終わらせないこと。比較群を置いて、受診率や精検受診率がどう変わったかを測りながら進めてほしい。
ミライさん
注意すべき点はほかにありますか。
ゲノ先生
2つある。1つめは、低リスクと出た方の受診控え。個別化の話をすると、必ずここが問題になる。「低リスクだから受けなくていい」と受け取られたら、事業としては失敗だ。案内には必ず「PRSの結果にかかわらず、対象年齢の検診は受けてください」と書いてほしい。
ミライさん
2つめは何でしょう。
ゲノ先生
公平性だね。PRSの性能は、元になった研究の対象集団によって変わる。もし性能が十分でない集団の方に対して、それを前提とした検診の設計をしてしまうと、かえって格差を広げてしまう。だから、日本人を含む集団で検証されているかどうかは、この文脈でも重要な確認事項になるんだ。
ミライさん
個別化は魅力的だけど、慎重に進める必要があるんですね。
ゲノ先生
その通り。そして健保の立場では、「いつか個別化される日のために、いま何を積んでおくか」を考えるのが現実的だと思う。受検データを持ち、受診率を測り、精検の追跡ができる体制を作っておく。制度が変わったときにすぐ動けるのは、そういう準備をしてきた健保だよ。
まとめ
- 1がん検診の最大の課題は集団全体で見た費用対効果。全員一律では資源の配り方がリスクの分布と合っていない
- 2個別化は検診を増減させるのではなく資源を配り直す発想で、費用対効果を改善し得る研究報告が出てきている
- 3乳がんでは大規模試験が進行中、前立腺がんではPRS上位群への層別化スクリーニングの成果が報告されている
- 4公的な検診の推奨は動かさず、受診勧奨の個別化・任意上乗せ補助の配分・精検受診率の底上げが健保の実務領域
理解度チェック
健保が個別化がん検診の考え方を取り入れる場合、適切な進め方はどれですか?
APRSが低い加入者には、公的な検診の受診間隔を延ばすよう案内する
B公的な検診は対象年齢の全員に案内したうえで、受診勧奨の伝え方や任意上乗せ補助の配分を検討する
公的ながん検診の推奨は有効性の評価にもとづいて定められており、健保や事業者の判断で対象や間隔を変更すべきではありません。実務として検討できるのは、案内の伝え方や、健保が独自に上乗せしている補助の配分です。
CPRSが高い加入者にのみ、公的な検診の案内を送る
よくある質問
個別化がん検診はもう実施されているのですか?
研究段階です。乳がんでは欧州のMyPeBSや米国のWISDOMといった大規模な比較試験が進行中で、前立腺がんではPRS上位群を対象としたスクリーニングの成果が2025年に報告されています。一方、日本の対策型がん検診は現在も年齢・性別に基づいて設計されており、遺伝的リスクによる個別化は制度として導入されていません。
個別化がん検診は、がん検診の費用対効果を改善しますか?
改善し得ることを示す研究が出てきている段階です。全員一律の検診では、大多数を占める低リスク層にも同じ資源が投じられ、そこから生じる偽陽性への対応や過剰診断も総コストに含まれます。リスクに応じて資源を配り直すことで、総額を増やさずに検出効率を高められる可能性があり、乳がんではPRSによる層別化検診が従来の年齢ベース検診より費用対効果の面で優れるという分析が報告されています。ただし前提の置き方や対象集団によって結果は変わるため、断定はできません。
遺伝的リスクが低ければ、がん検診の間隔を延ばしてよいですか?
いいえ。現在の公的な検診の推奨は年齢・性別等に基づいて定められており、PRSの結果を理由に自己判断で間隔を延ばしたり受診を控えたりすることは適切ではありません。将来的な個別化は研究が進む領域ですが、現時点の推奨とは分けて考える必要があります。
参考情報
LEVEL 4予防・健診への接続3 / 7 記事目
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